第一回「カンボジアへ」

 元々、僕は自分の子供だけが子供ではなく、アフリカからカンボジアの子供まで、この地球上に生きる子供達はみんな自分の子供だという考えで今日まで歌い続けています。だから、中学、高校時代からタナマンやアラセが家に来ても、ゆうたと同じうちの子供達という気持ちでつきあってきました。

 B-DASHがCDデビューして、スガ家の触れあいの場がまた全国に広がってきたのはとってもうれしいです。なんだか、ゆうた、タナマン、アラセに続いて自分の子供が増えたような気がしてなりません。気楽にB-DASHのサポーターのみなさんもこのホームページを楽しんでくれるとうれしいです。

 それでは第一回目の今日はゆうたが初めて海を越えて両親とともにカンボジア難民キャンプに出かけた時のお話をしましょう。

 その頃、僕はもちろん歌手活動もしていましたが、本業は建築家で、早稲田の理工学部大学院を終了後、東海大学の教壇に立って学者として活動していましが、TVやニュースでカンボジアの惨状を知り、どうしても救援活動で現地の子供達に楽器や歌の贈り物をしたいと考えました。当時はまだ、難民を助ける会やボランティア組織もない時代でどうしたらいいかも、わからない時代でした。

 僕はまず、妻の明子にカンボジア行きを相談したところ、即座に賛同してくれました。生活も楽ではない中でのカンボジア行き、ましてや2才の長男ゆうたと0才の次男そうたを抱えた毎日の中でのカンボジア行きは考えただけでも、厳しい試練です。妻の明子自身東大の医学部で保健学の博士を取得。女性として健康を通じて世界に役立ちたいと思っていたため、本気で応援してくれたのです。二人で話し合い、そうたは近所のおばさんに頼んで国内で面倒を見てもらい、二歳のゆうたは過酷なカンボジアの旅へと同行する事になりました。今では、ストリートミュージシャンは当たり前の時代ですが、当時は町で歌うと警察に捕まるような時代でした。けれどもカンボジアの救援募金のために一家でハチ公前広場に立ち、募金のためのコンサートを連日繰り広げました。二歳のゆうたはベビーカーに乗せられ、雑踏の中でがんばり続けました。

 今、思えば、こうした幼児体験が無意識のうちにゆうたの今の人間形成の基盤になっているのではないかと思う事もあります。冷たい目を投げかけて行く人々の中にも歌に耳を傾け、募金箱に協力していく人々の数が、日ごとに増え、無事に成田を旅立つ日が来ました。

 


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