第六回「国連本部でのコンサート2」

 一口でニューヨーク国連本部でコンサートをすると言っても当時の僕にとってはというより、どんな日本人にとってもそれは雲をつかむような話でした。国連に行く事さえ夢のような話なのにそこでコンサートを開催するなんて!

 でも、そこが僕の素直なところで、夢を実現させるというマイケルクラーク代表の言葉にすっかり勇気づけられて単身ニューヨークに渡りました。けれども、立場やお金があるわけではなし、ケネディ空港にいざ、降り立つとやはり不安が先立ちました。マイケルクラーク代表に言われた通りユニセフやユネスコの代表を訪ねたりマイケルクラーク代表の幼馴染みという幻のフォークシンガーのピートシーガーを訪ねたりと積極的に動いているうちにいつの間にか、身も知らないニューヨークにも力強い地球歌の日の支援者が次々と現れてきました。ピートシーガーは、ボブディランやジョーンバエズの生みの親で自らも「花はどこへ行った」や、「ひとりの手」等の大ヒットを飛ばし世界のフォーク界の大御所的存在のシンガーですが、いざ、会うと本当に気持ちのやさしいおじさんという感じで駅まで自分の運転でたったひとりで僕を迎えに来てくれ、奥さんと二人で手料理で持て成してくれました。一晩中、平和について歌い語り合いましたが、改めてニューヨークという町のおもしろさを肌で感じました。

 メトロポリタンアンサンブルオブニューヨークを訪ねると地球歌の日に大いに共感し、国連本部でのコンサートを受け持ってくれる事になりました。ジュリアード音楽院を卒業した世界最高のアーティスト達が僕の歌の演奏を引き受けてくれる!まるで夢のような日々です。国連関係者の紹介でその時、日本人としてはじめて国連事務次長を務めていた明石康さんの執務室を訪ね、そこでも次の時代の国際社会における日本の役割と平和について、とことん語り合いました。その時以来、明石さんとの出会いがはじまり、先年旧国連事務総長のガリさんが、来日時には懐かしい再会をする事ができました。明石さんの心からの応援でニューヨーク国連本部での地球歌の日コサートは一気に実現に向けて動き出し、準備を終えた僕は一旦、日本に帰国する事にしました。

 1981年。夏。すっかり、準備が整ったニューヨークへ、再び旅立つ事になりました。この時も妻の明子と長男のゆうたが同行する事になりました。なんといってもこれからの活動は、家族の力強い支えや信頼の上に築いていく必要があります。その意味では、カンボジアの難民キャンプ行きと同時に国連を肌で感じてくるという事は幼いゆうたにも大切な事だと思いました。メトロポリタンアンサンブルオブニューヨークとのリハーサルがはじまると、本物のオーケストラにゆうたも目を丸くしています。アンサンブルのメンバーもゆうたにとても優しく接してくれます。突然、指揮者の高原守さんが、ゆうたに近付き「僕もちょっと指揮をしてみるかい?」と語りかけました。ゆうたは、目を輝かせて小さな体で指揮棒を握りしめました。高原さんは親切にゆうたの手を取るとおもむろに後ろ手で指揮をはじめました。すると、親切なアンサンブルのメンバーが一斉に演奏をはじめてくれたのです。ゆうたの嬉しそうな顔!たぶん、本格的なオーケストラの最年少指揮者記録樹立の一瞬です。もっとも今、ゆうたに聞いてもその記憶はあんまり小さすぎてないようですが、でも記憶のどこかにきっとあると思います。パンクロックのB-DASHの音楽のどこか片隅にしっかりした構成とメロディ感覚があるとしたら、やっぱりこんなささやかな経験が生きているのかもしれません。学校の勉強も大切ですが、幼い時にいろいろな人に出会い、いろいろな経験を積み重ねる事も大切な事だと思います。もちろん、ニューヨーク国連本部での地球歌の日コンサートは大成功!国境や人種を越えて歌が世界中の人々の心を確実に結んだ一瞬でした。残念ながら本番はゆうたは客席でしたが、いつの日か、B-DASHがニューヨークで大活躍!国連本部でコンサート!なんていう事もきっと「あり」だと思います。夢は夢でなく、実現するもの....... 

 


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