第七回「ゆうたが生まれた頃の生活」

 それでは、ここでゆうたが生まれた頃の私達の生活ぶりをお伝えしましょう。どんな人も生まれてくる時自分達の両親を選んだり、環境を選んだりする事はできません。みんなそれぞれに生まれた環境の中で人生をスタートさせていくのです。

 僕自身は、終戦の一ヶ月前ソ連軍に追われ、悲惨な生活の中、旧満州で生まれました。今、思えば、カンボジアやアフリカと比べてもその悲惨さは、まさるとも劣りません。食べ物も着るものにも事欠く毎日の中で乳飲み子を抱えた母の苦しみは、どれほどだったでしょうか。僕も早産で虚弱児。やっと母の胸にしがみつき生き延びたという事です。多くの人々が日本への引き揚げの途中で貴い命を落としていきました。特に幼い命が.....引き揚げ船の中で息を引き取った子供達はシーツに包まれて海に捨てられたそうです。母は死線を漂いながらも、ただただ、「やすのり、死なないで」と願い続けました。

 そんな僕が今、こうして生き延びて世界の人たちに平和な歌を届ける役を果たしているのですから命というものは不思議です。どんな、苦しい時も乗り越えれば力をつけて、次の時代に生きていける。今もそう信じています。ところで、ゆうたが生まれたのは東京都大田区大森西という昔は町工場がたくさんあったところです。なぜ、そんな町でゆうたが生まれたのかというと、それは私達の家作りに関係があります。ゆうたが生まれたのは1977年、8月21日。その当時、東京は人口が増大し、過密化が激化していました。川や海はヘドロで埋まり緑は消え、排気ガスに包まれました。そんな東京に嫌気をさした人々が次から次へと東京を脱出し、マスコミもそうして田舎に逃げた人たちを美化し、もてはやしていました。けれども、僕にはその風潮は少し疑問でした。町をここまで汚したのは誰?自分達人間じゃないだろうか。その町がよごれたからといって田舎に逃げ出す事が本当の勇気だろうか。優しさだろうか。本当の優しさは違うと思う。ヘドロに手を突っ込んで掃除したり、緑を失った町に花を植えたりして東京を蘇らせる事が本当の愛ではないだろうか。汚れて苦しんでいる町だからこそ、愛情が大切なのです。私達が考えた事は、町工場のリフォームでした。当時はまだ、リフォームという言葉はありませんでしたが、とにかく、排気ガスに汚れた町工場に住んでそこに緑を植えふれあいの種をまく事にし、さっそく不動産屋さんをめぐる事になったのです。もちろん学問に打ち込む僕達にはお金なんてありません。

 

 


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