第十二回「夢大陸横断へ」

 ゆうたが、夢大陸アメリカ横断という冒険に参加する事になったのは、1984年夏の事でした。ゆうた7歳。これも偶然の出来事から始まりました。

 その年の二月、各新聞は一斉に冒険家・植村直己のマッキンレー遭難を一面トップで連日報道していました。「北極圏を犬ぞりで横断したり、エベレストをはじめ、世界の最高峰の登破に成功した歴史的な大冒険家・植村直己アラスカ、マッキンレーで消息を断つ!!」日本中が騒然としていました。植村直己といえば、僕が世界に提唱している地球歌の日活動の最初の5人の仲間の一人です。植村さんは決して歌は上手ではありませんが、心から歌が好きな人でした。エベレスト登山の時は、チベットのシェルファー達と共に歌い北極圏犬ぞれ横断の時は協力してくれたエスキモー人達と共に歌い、信頼を築き上げたという事です。1979年には、国際的な受賞のために滞在していたヨーロッパから急きょ、九段会館で開かれていた僕の地球歌の日コンサートに参加するために、帰国してくれ、舞台で一緒に「雪山賛歌」を歌ってくれました。舞台上で植村さんが言った「本当に歌は人の心をつなぐものですね」という言葉が今でも思い出されてきます。雪のマッキンレーで見つかった最後の植村さんの日記には「今日は青い山脈を歌って吹雪と戦った」と記されており、その翌日からは白紙になっていました。植村さんが壮絶な吹雪きとの戦いの中で最後まで歌を歌っていた......その事実は極限状態の中でも歌は人を支え続けるという事を僕に教えてくれました。

 僕は植村さんをサポートしてきた明治大学の山岳部の人々と協力をして渋谷のハチ公前に立ち、植村さん捜索のための費用を得るために連日歌い続けました。2月という寒さも加わり僕ののどは完全に痛んでしまいましたがそれも気にならないほど植村さんの一日も早い捜索が求められていました。アラスカ現地の人々の必死の協力もむなしく、結局植村さんは見つかりませんでした。その夏、明治大学山岳部のメンバーと相談して捜索に協力してくれたアラスカの人々にお礼をするために僕がマッキンレーに飛び現地でコンサートをする事になったのです。

 出会いというのは不思議です。このマッキンレーでのコンサートをきっかけにその夏、アメリカを西海岸のロサンジェルスから東海岸のニューヨーク国連本部まで地球歌の日を訴えてアメリカ横断コンサートの企画が生まれてきました。テレビ東京で当時人気番組だった「スーパーテレビ」でなんと月曜日から金曜日まで五日間に渡り午後8時から9時のゴールデンアワーに合計5時間の放送というビッグプログラムです。この企画が実現した裏にはトヨタ自動車の全面的な支援がありました。その頃、トヨタ自動車の宣伝部長だった神尾隆さんが僕の活動と、地球歌の日の主旨に深く感動してくれて全番組のスポンサーを引き受けてくれたのです。トヨタ自動車は国際的に活躍していますが、その企業の良心として僕の活動を応援してくれたのです。タイトルは地球歌の日「すがはらやすのり一家の夢大陸アメリカ横断」すがはらやすのり一家ですから、もちろんゆうたも一員です。そして、弟のそうたも....

 ゆうたにとってもでっかい夏休みになりそうです。どんな出会いがアメリカ大陸でゆうた、そうたを待ち構えているでしょうか。

 

作者・やすのりより。
いつも御愛読ありがとうございます。
B-DASHゆうた物語もいつのまにか十二回目を迎えました。第十回の「ゆうたちゃんの初舞台」がありましたが、その頃のゆうたちゃんを.....というリクエストに答えて大森北保育園時代のゆうたちゃんのスナップです。今と面影がありますか?

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