第二十三回「転校、また転校」

 歯車は一つ狂い出すと次々と狂い出すものです。遠い横浜の中学校も決してゆうたの安住の地ではありませんでした。父兄懇談には妻の明子が仕事で行けず、たまたま僕のコンサートのオフの日だったので僕が横浜へと出かけました。担任の先生は20代後半か、30代前半の男性で体育の担当。とても、心のあるいい先生でした。よく、先生さえよければ、と言われますが、中学時代はやはり複雑な成長期でそれだけでも根本的な問題解決にならない事を知りました。クラスごとの懇談会で僕が多くの父兄の中で自己紹介をするとお母さん方から「あら、すがはらやすのりさん....私大ファンです...」と次々と握手の手が伸びました。正直言って照れくさい気がしました。担任の先生も「ゆうた君に特別に問題があるわけではありませんよ。才能豊かで個性のあるいい生徒です。」と言ってくれています。きっと多感な中学生のゆうたには大人の社会、そして、学歴等、人間として根本的なところで苦しんでいたのでしょう。結局、ゆうたはほんの短い在学で、その中学に別れを告げる事になりました。ギターと音楽が大好きと言っていたあの担任の男の先生をふと今でも不思議な気持ちで思い出す時があります。あの時のつかの間の転校生が今、B-DASHとして音楽活動をしているのを知ったらどう思うでしょう。いつの日かゆうたと共にお礼に行きたい気持ちです。

 ところで、遠い横浜の中学校からゆうたが転校した先はなんと地元の大森第八中学校でした。この大森第八中学校というのも不思議な学校で、進学等ではあまり知られていませんが、古くは浅野温子、鈴木雅之、桑野信義、そして最近では(そうたの同級生でよく一緒に遊んでいましたが)タレントの小橋健児等、いろんな個性的な人たちが卒業しています。もちろん、ゆうたはそんなつもりで転校したのではありませんが。

 とにかく、遠くの学校に疲れたゆうたにとって、近い地元の学校というだけでもホッとしたようです。転校して間もなく、国元君という友人ができました。雨の日も風の日も8時5分になると玄関のチャイムが鳴り、「ゆうたく〜ん!」と元気な声が聞こえてくるのです。その声に僕と明子はその子を「いつものおクニ」(出雲のお国)と名付けました。どんなに激しい嵐の日でも玄関で待っていてくれるのです。あんなに苦しんでいたゆうたの毎日に笑顔が戻ってきました。そう、一番大切なのは親友だったのです。それからのゆうたは、まるで夢から覚めたように毎日楽しそうに過ごしはじめました。今でも、忘れられないのが中学三年の体育祭です。学校中で一番背の小さいゆうたが一番前で上半身裸で騎馬戦の入場をしてきた時、なんだか涙が込み上げてしまいました。ゆうたがんばれ.....

そしてついに、B-DASHへの道がこの中学時代にはじまるのです。

 


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