第二十五回「B-DASHの前身NO-NAME誕生」

 地元の区立大森八中から受験を迎えたゆうたはやはり、地元の都立蒲田高校を受験する事になりました。なんの迷いもなくです。なぜなら、八中へは歩いていけたけれど、高校は一番近くて自転車で行けるところを選んだからです。ゆうたのおもしろいところは、いろいろな苦しみを乗り越えた結果、「自分が行きたいと思った学校、自分が好きな学校が世界一だと思う」という考えにたどりついたのです。世間では偏差値や進学率で学校を差別するけれど、ゆうたが一番嫌いなのはそうした考え方。よいか悪いかは自分自身の判断。潔い決断です。

 蒲田高校に進学したゆうたはまた改めて雨の日も風の日も自転車に乗って通学する日々を過ごしていました。もちろん、あの「いつものお国」こと国元君も同じ高校です。けれども後日、国元君は担任の先生とのぶつかり合いからこの高校を去る事になるのですが.....今思うとクラス担任の存在は生徒の一生に大きな影を落とすようです。同じ高校に進んだゆうたは国元君とバンドを組む事になりました。2年生に進級すると別の高校に行っていた大黒屋君という友達も二人を追って1年生に編入してきました。中学で同じ学年だった親友が1年下になるのですから不思議な話です。3人が集まると決まって音楽の話です。ある日、埋め立て地の平和島公園でアマチュアバンドのライブがありました。それに出演したゆうた達のバンド名は(NO-NAME)いわばB-DASHの前身ともいえるでしょう。ドラムには通称鶴ちゃん(鶴田君)が加わりました。オリジナルの他あのブルーハーツのリンダリンダ等、青空の公園での熱演が目に浮かびます。ある日、町を歩いていたメンバーは高校生バンドコンテスト「ホットウェーブ」のチラシに目をやりました。全日本コンテストやってみようか。部屋にこもってゆうたはオリジナルの「ゴーストタウン」を録音して生まれてはじめてコンテストに応募です。1000バンド以上の応募の中から第一次審査で80バンドがニッポン放送での2次審査です。なんと、通過。生まれてはじめてのコンテストでニッポン放送へ行ったメンバーはさらに準決勝へと歩みを進めました。準決勝は神奈川県の関内ホール。決勝は横浜球場です。関内ホールでの審査の結果は決勝進出は果たせませんでしたが、出場バンド中確かに一番パワフルでよかったと思います。当時は応援隊の一人として弟のそうた達と会場にいたタナマン(現B-DASHベース)は終了後、顔を赤くして叫びました。「ちくしょー、あの審査員達クソだよ。俺が見たらスガ兄さん(ゆうたのニックネーム)絶対負けてねーよ」その強きな言葉に頼もしく思いました。この客席で激怒していたタナマンがその後、B-DASHの一員に変わってくるのですから人生はおもしろいですね。実はタナマンは弟のそうたの親友の一人だったのです。

 


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