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面接は上野池之端にある大森実事務所で行われました。僕と岡山さんは、電話をかけて約束の時間を決め、池之端に出かけました。当時、日本のジャーナリズムのオピニオンリーダーは大宅壮一と大森実でしたが、その二人が全力をかけてこの太平洋大学の企画を推進していたのです。
おもしろいことに、当時すでに40を過ぎていた先輩の岡山さんが面接で学生と間違われてしまったのです。ミュージックフェアの演出などをしているといつまでも若々しいのですね。僕が大学生だったので、二人とも学生仲間と思いこんだようです。いずれにしても、面接は二人とも合格。晴れて太平洋横断の切符を手にすることになりました。
ところが、出発の日が近づくと、岡山さんがどうしても会社のスケジュール調整が無理になり、結局、僕だけが太平洋横断の旅にでかけることになってしまったのです。今、思えば、岡山さんがあのパンフレットを持って来なければ、僕のアメリカ行きもなかったかもしれません。いずれにしてもこれが僕の世界70数カ国の旅のはじまりとなったのです。
たしかに、それまでの僕はずいぶんいろいろなことに取り組み、考えていましたが、いずれにしても狭い日本という国の中の経験と知識でした。「船で太平洋を渡り、アメリカに上陸する。きっと、そこには何か大きな出会いがあるはず。」僕の胸は高鳴りました。
7月のある暑い日。太平洋横断のマルガリータ号は、晴海埠頭に停泊しています。友人の長田君、沼口君達もみんなで見送りに来てくれています。今の、人には信じられないことだと思いますが、何度も言うようですが、当時、アメリカに渡るということは一大事だったのです。
蛍の光が流れるなか、五色のテープが乱舞し、いよいよ太平洋横断の出発です。僕は、これからやってくる未知の日々に胸躍らせていました。
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