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今、思うとよく僕自身荒らされた部屋の毛布の中で生きていたとつくづく思う。今は亡き父も「まさか、やすのりが生きているとは正直思わなかった。やすのりという人間はこの世に生まれてくる使命が大きかったのかもしれない」とよく言っていた。中国の残留孤児の人達の話題がずいぶん新聞をにぎわしたけれど、一人一人にきっと深い事情があったに違いない。子供を死なせることや、捨てること。人に手渡すこと。それが、うれしい親がどこにいるだろう。もし、僕があの残留孤児達の一人になっていたとしても、不思議ではなかったのだ。
終戦を迎えて父は馬賊となり、とてつもない人生を過ごしたが、この話だけで、一冊の本になってしまいそうなので、ここではあえて省略しよう。そして、最後に父が立ち上がったのが、難民と化した日本人のための難民救済公社の設立だった。詳しくは書くことができないが、あの混乱の土地でこの事業は大変なことだった。どんなに苦しい時でも、民衆の苦しみを直視して生きる一徹な父らしい仕事だった。多分、自分では気がつかなかったが、僕が知らないうちにカンボジアやアフリカの難民キャンプを訪ねてきたのも、同じ血なのかもしれない。菅原一家自身もやがて、難民となり、日本人難民収容所に収容されることになり、帰国の日を待つことになった。難民収容所での生活は、やはり過酷だった。まず、一番の恐怖は伝染病だった。幼い子供達が栄養失調と劣悪な衛生状態のために、命を落としていった。未熟児で生まれた僕は、本来、まっさきに命を落とすところだった。ある日、収容所で乳幼児だけ、伝染病に対する予防注射を受けることになり、母に抱かれた僕は、その行列に並んだ。ところが、僕の前で注射液が終わってしまい、注射を受けることができなくなってしまったのである。母は、悲しい目で僕を見つめた。「ごめんなさい。やすのり。」。
ところがである。翌日、予防接種を受けた乳幼児が次々に苦しみだし、死んでいった。注射器に恐ろしい病原菌が付着していたのだという。なんということだろう。もし、僕が注射を受けていたら、もちろん、僕も命を落としていたのだ。馬車の夜逃げの事件といい、毛布事件といい、どう考えても不思議なことばかりだ。僕は、またこの難民収容所でも生きのび、ついに引き揚げ船に家族と共に乗り込んだのだ。
続く......。
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