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言い忘れていましたが、僕が太平洋大学に参加し、晴海を出発したのは昭和43年7月のことです。僕は大学院の一年に進学していました。建築学科にすすんだ僕でしたが、幸運にも4年生の時に希望通りの建築設計コースへと進むことができたのです。当時、設計机の都合上、180人の建築学科生のなかで30人しか設計コースに行くことができなかったのです。これが、早稲田闘争の遠因のひとつでした。早稲田闘争は、社会ニュースでも大きく取り上げられ僕もそのまっただなかにおかれていましたので、いつか機会があったらそのお話もしたいと思います。
とにかく、僕は運よくその30人に選ばれ、希望の設計コースへと進んだのです。そして、大学教授の推薦でまた無試験で大学院へ進むことになったのです。しかも、村野奨学金まで受けられることになったのです。そのためもあり、少し精神的にゆとりがとれたのです。思えば、合唱団とデザイン研究会の二つのクラブ活動をやり、しかも合唱団コールフリューゲルでは、部長まで任されてしまったのですが、そのなかでの毎週土日のミュージックフェア演出。今、思えば若いからこそできた日々ですね。多分、この頃のマルチ的日々が今、こうしてたくさんの仕事を同時にやりこなしていける力を養ってくれたのだと感謝しています。
晴海埠頭はぬけるような青空。いよいよ大航海のはじまりです。最初の一日は東京湾をぬけて穏やかに船旅がすすみました。ところが、二日目の夜から、船は狂ったように揺れだしました。船上の若者達は次々に青ざめた顔で吐き気をもよおし、部屋へと逃げ込んでいきます。部屋にとじこもったまま、あちこちから嗚咽が聞こえてきます。そう、日本は黒潮に囲まれていたのです。そして、その黒潮を乗り越えて太平洋の大海原を出る時に潮流のぶつかる地点を越えなければならないのです。その時、船が一晩中激しく揺れ続けるのです。
「大海原」それは、たくさんの顔を持つ魔物でもあるのです。僕は、甲板に出てデッキにしっかりと手をかけました。そしてちょうど遊園地のウォーターシュートのように船とともに上がったり下がったりに身を任せました。不思議なことにすっかり船に身を任すと酔うどころか、その上下の揺れが楽しくさえなってきたのです。そう、その時、僕は気がつきました。自己に閉じこもって自己防衛をすればしようとするほど、盲目的になってしまいます。むしろ、デッキに出て、大海原の果てをしっかり見つめて船に身を任せていると大きな夢に向かって歩き出せるのです。それは、不思議な発見でした。
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